「志度寺縁起絵図」より
 藤原不比等(659〜720)が、奈良に父鎌足(614〜669)の供養のた
め興福寺を建立した。その時、妹(唐の高宗皇帝の妻)が、唐に伝わ
る「華原けい(カゲンケイ)」「泗浜石(シヒンセキ)」「面向不背(メンコウフハイ)(24
pの玉の中に釈迦三尊像が刻まれていて、どこらから見ても背が見
えない)の三つの宝珠を船で日本に送った。船が志度の沖へさしか
かった時、海が荒れ、船が難破しそうになった。そこで、龍神の怒
りを鎮めるため、面向不背を海にささげ、何とか危機を脱すること
が出来た。

 不比等は、非常に残念がって、姿を変え志度へ宝珠を探しに訪れ
た。だが海底の宝珠は、簡単には見つからなかった。そのうちに、
不比等は若い海女と親しくなり、房前という男児を設けた。この時
彼は23歳だったといわれる。

 志度の浦で、度々海を眺めている不比等を不思議に思った海女は
その理由をたずねた。そこで、不比等は身分を明かし、宝珠を捜し
ていることを話した。海女は、「もし、その宝珠を取り戻したなら
我が子房前を世継ぎにしてくれるか・・・」と言うと、不比等はう
なづいた。

 「それならば、我が子のために命を捨ててもおしない」と、観世
音に祈り、腰に長い縄を付け「宝珠を取り戻したら、縄を引くので
引き上げてほしい」といい残して、海に飛び込んでいった。

 海女は海中深く潜り、宝珠を取り戻したが龍神に見つかってしま
った。龍神に追われるなかで、海女は自分の乳房を短刀でえぐり、
その中に宝珠をかくして縄を引いた。合図があって縄を引き上げる
と、血に染まった海女が海上に引き上げられた。宝珠は乳房の中か
ら出てきたが、海女は息を引き取ってしまった。

 不比等は、海辺の近くに墓をたて、堂宇を建立して「死度道場」
と名づけた。そして、房前をつれて都に帰り、宝珠は興福寺の本尊
釈迦如来の眉間に納めたといわれる。

 房前は、不比等により立派に育てられ、藤原北家の祖となった。
そして、元正天皇、聖武天皇の側近として仕えた。

 後に房前は、行基菩薩を伴って墓に参り、母の追善供養のために
堂宇を増築し、寺の名前を志度寺と改めた。

 志度寺の仁王門を入った左手に、海女の墓がある。
 志度寺縁起絵図は、寺創建当時から鎌倉時代までの縁起伝説を描
いた、重要文化財である。