(へんろ橋コ−ス)
道後村めぐり
松山市石手町 2
(9) へ ん ろ 橋
(順路・・岩堰より石手川沿いに、西南へ約600メートル行くとへんろ橋の
 南端に着く。スタンプ台は橋の北詰めの橋のたもとに有る。約10分)
(位置的には、石手寺より南へ真っ直ぐ約300メートルの地点、徒歩約6分)










スタンプの句(夏目漱石)
ここに句碑はありませんが、へんろ橋の
情景にふさわしいこの句が選ばれてスタ
ンプになりました。
(注)
スタンプ台
へんろ橋(北詰め)と
へんろ橋
 四国霊場 88か所を結ぶ遍路道に架かっている橋 のこ
と。 いたる所にあるるのですが、石手川に架かる この 橋
は、明治10年の記録(温泉郡地誌)によれば、長さ16間
(29.1m)、幅3間(5.5m)の板橋でした。ところが この橋が
流失して、昭和55年(1980年)、現在の 鉄筋 コンクリート
の橋に架け替えられました。 長さ38.4m ・ 幅12m
四国遍路の起こり

 古くから、山岳修行のため海岸を巡り、山深く分け入る 修験者
( シュゲンジャ・・・役の行者−エンノギョウジャ に代表される一団の人達)
がいました。若い日の空海(774〜835)も18才で大学に入って詩書
などを学びましたが、やがて中途退学して、24才まで山岳修行者と
して近幾や四国を遍歴、苦行修練した跡が、阿波国大滝嶽や土佐国
室戸崎、伊予国石鎚山などに残っています。この空海−後の弘法大
師の巡った跡を四国霊場の札所に定めたものと考えられています。
八つ塚の内の第5,6,7,8番目の塚・・・土地の
人々の手で八つともきちんと手入れされ、祀られてい
る。(松山市恵原町・八坂寺の近く)

またこの近くの 「文殊院」 には、衛門三郎夫妻の石
の像が建てられ、三郎の屋敷跡と言われている。
衛門三郎の像(石手寺)
 四国巡礼の習慣は古く、今昔物語
(11世紀・平安後期)にそれらしい
表記が見え、「四国遍路」と明記の
あるのは 弘安年間(13世紀後半)
霊場が88ヶ所になったのは、室町
時代末期、今のように場所がはっき
り定まったのは江戸時代になつてか
ら・・・・・との研究が報告されて
います。
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 霊場巡拝者たちは、山間僻地を巡
り、修行する中で自然に宗教的体験
を得て信仰を深くしました。また、
「へんろ道」が整備され、へんろ宿
もたくさんできてそれらが一般の旅
行者にも利用され多くの人々に便宜
を与えたことはいうまでもありませ
ん。
 封建制度の厳しかった江戸時代、
庶民のレクリエーションの場であり
見聞を広める機会でもあり、文化の
伝播にも貢献するなど、昔も今も、
「お四国さん」の持つ意味は大きく
限りがないようです。
衛門三郎の伝説  
 むかしむかし、天長年間(824〜833)のこと、現在の松山市恵原町の富豪・衛門
三郎の門前に、物乞いらしい一人の僧が立ち寄りました。強欲な三郎は、食べ物を
分け与えないばかりか、竹箒で僧の鉄鉢を叩き割り、追い返してしまいました。鉢
は八つに割れて飛び散り、不思議なことに、その日から八人の子供が次々に病死、
一つ一つと墓(塚)に葬り悲しみに暮れる三郎は、やっと気が付きました。
 あのお坊さんに逢ってお詫びをしたい・・・人生の無情を感じ、自分の非を悟っ
た三郎は、僧に許しを乞うために、ただひたすら後を追って歩き続けました。求め
求めて八十八か寺を二十数回巡りましたがついに追いつきません。十二番・焼山寺
まで来たとき、とうとう力尽きて動けなくなりました。その時大師が現れたのでし
た。心から悔い改めた三郎を許し、いまわの際に、来世の望みを聞くと傍らの小石
に文字を書き、にぎらせました。・・・・・それから六十年ののち、伊予の国主・
河野家に長男が誕生、握りしめていた左手から「衛門三郎再来」と書かれた小石が
現れたと言います。                     (石手寺縁起)
 これが、大師の跡を慕って札所を巡る四国巡礼の起こりだと言われています。
写真 渡部英綱