松山城の堀が埋め立てられて、なくなろうとしていた。
それに反対して、堀を守った人々の話(昭和24年ごろ)
美しい松山城の堀(2007/1/24)
松山城の堀の埋立を阻止したことが書いている石碑
写真中央の山頂近くに松山城が見える
国道196号線朝美2丁目交差点の信号機近く(2007/1/24)
国道196号線、松山市朝美2丁目の交差点信号機近くに、上の左の写真の石碑を見つけました。その内容
は、終戦後、松山城の堀を埋め立ててなくなろうとしていたのを、埋立計画に反対して堀を守ったいきさつが
書かれています。この石碑は、初めは堀の近くに立てられていましたが、現在は、堀から約1.5kmはなれた道
路わきにあり、堀の近くで人目につく場所にあればと残念に思います。美しい堀について、こうした出来事が
あったことを知っている人は少なくなっていると思うので、石碑の文章を下に紹介します。
松山城濠の大恩人  岡井藤志郎先生の顕彰記
 中国には「水を使う人は井戸を掘った人の苦労に感謝しなければならない。」という詩がある。国宝姫路城内には明治の初年
新政府の方針により廃城と決し、取り壊しの運命にあった姫路城と名古屋城の保存を時の陸軍卿山縣有朋に建白し、二名城を
救った陸軍省第四局長代理中村重遠大佐の顕彰碑がある。天下の名城松山城を拝観し、巨匠の名画にも優るお濠の美観に
暫し陶然たる観光客及び松山市民各位、朝美地区百町歩の美田の穣々たる黄金の稲穂に感謝する百余戸の農家各位、今を
距(さ)る三十六年前の昭和二十四年八月松山城のお濠を埋立の危機から救った最大の功労者、元横浜地方裁判所判事、元
衆議院議員、弁護士岡井藤志郎先生に感謝の意を表して頂きたいと衷心より切望するものである。岡井先生は大戦末期の昭
和十九年三月及び六月、当時裁判所判事の職に在りながら、時の内閣総理大臣東條英機大将に対し「閣下は必ず国を亡ぼ
す。足利尊氏は逆臣であるが国を亡ぼさなかった。閣下は足利尊氏に勝る逆臣である」旨の弾劾文を再度送り、為めに懲戒裁
判に掛けられた熱血憂国の志士である。
 顧みれば昭和二十三年秋、愛媛軍政部司令官シアルス中佐は安井雅一松山市長に松山城のお濠の埋立を命令した。その
理由は「お濠が不潔だから埋立よ」というものであったが、実は「お濠の埋立跡地に高層商店街を建設して後世に遺し、米軍松
山進駐記念としたい」というのがシアルス中佐の真意だったという。この命令を受けた安井市長は同年十一月内濠埋立工事費
予算案を市議会に提案し,可決後直ちに着工し、昭和二十四年六月完成した。七月一日軍政部は民事部と改称された。同月
安井市長は南側を除く外濠全部の埋立工事費と跡地払下関係予算案を市議会に提案した。これに対し市議会は当初強硬に
反対したが「進駐軍司令官の命令」という錦の御旗を掲げた市長の説得に服し、遂に八月十二日全会一致を以って予算案を可
決してしまった。この事を伝え聞いた岡井藤志郎先生は八月十五日付愛媛新聞に反対意見を投書して市長及び市民に訴え
た。長坂親和氏、田井能重雄氏等は「松山城濠埋立反対期成同盟会」を結成して猛烈に反対した。参議院議員久松定武先
生もシアルス中佐、レイ少佐に貴重な文化財の保護を訴えた。又お濠の水を灌漑用水の唯一の水源としている朝美地区百五
十戸の農家で組織する城濠水利組合の組合員も水田耕作農家の死活問題であるとして猛然立上がって市長及び市議会に陳
情した。岡井先生も七千字を超える「城濠埋立反対陳情書」を作成し、元愛媛県立城北高等女学校長渡部利三郎先生に委嘱
して英文に翻訳の上司令官に提出し、埋立命令の撤回を縷々嘆願した。併し、このような松山市民挙げての反対運動も残念な
がら一向にその功を奏せず、内濠の埋立工事は既に完成し、外濠の埋立工事も着々として進捗し、堤防上の松は次々に伐採
され、満々と水を湛えた名城のお濠もあわや土砂瓦礫の山となるばかりとなった。お濠の運命は正に風前の燈であった。この緊
迫した事態を目前に見た岡井先生は決死の覚悟で司令官に直接面会の上文化財と灌漑用水源の保護を訴えようと決意し、昭
和二十四年八月二十九日午前十時城濠水利組合長向井惣十郎氏、理事水戸政雄氏以下役員組合員百五十名の先頭に立
ち民事部に乗り込み司令官に面会して埋立命令の撤回を訴えた。大挙して押し掛けた陳情団に立腹した司令官は最初は岡
井先生を階段の上から突き飛ばす程の剣幕であったが、東條総理大臣さえ恐れなかった胆勇の人岡井先生舌端火を吐く熱誠
溢るる懸河の弁に動かされ、遂に「よし分かった。諸君の見方になろう」と言って岡井先生に歩み寄って握手を求めたのであっ
た。陳情団員は思わず「萬歳」を連呼したのであった。岡井先生は直ちに水利組合員と共に市役所に乗り込み、安井市長、村
上議長に面会し、司令官の意向を伝え、埋立中止を訴えた。その結果市長も中止を確約し、一件落着したしだいである。尚長
坂親和氏、田井能重雄氏苦心の結晶に成る「松山城濠埋立反対期成同盟会」の意見広告「城濠埋立反対声明書」は惜しい
哉その翌日八月三十日付の愛媛新聞紙上に掲載されたのであった。
 以上の経緯を以って松山城のお濠は埋立を免れたが、この大事件は連合軍占領下の日本歴史上比類のない金字塔というべ
きもので、その第一の功労者が岡井藤志郎先生であることは何人も認めるところである。然るに三十六年に及ぶ歳月の経過と、
岡井先生が昭和四十九年十月十九日七十九歳を以って溘焉(こうえん)として逝去されたこととにより、この歴史的大事件も風
化し、今日においては事件の真相と岡井先生の偉大な功績とを知る人は極めて少ない。私はこれを頗る遺憾とし「松山城濠の
大恩人岡井藤志郎先生顕彰記」を作成して銅版に刻し、城濠水利組合理事水戸政雄氏、藤田勉氏、石本正信氏、白石昭一
氏、一色精樹氏、栗林兼夫氏、加藤進氏、松友修氏、の御協力を得て、此所松山城のお濠に程近き松前町の一角に建設し、
以って戦後史に輝く不滅の金字塔、松山城濠埋立阻止の史実と岡井藤志郎先生の偉大な功績とを後昆(こうこん)に伝えようと
念願するものである。

  昭和六十年八月二十九日
                                   元埼玉県監査第一課長  高麗博茂撰文
                                               稜岱  江袋和男謹書
石碑の文章